山岡鉄舟の名言―晴れてよし 曇りてもよし 富士の山―

「その頃、歌を作ったとておれに読んで聞かせたよ。

晴れてよし曇りてもよし
富士の山
もとの姿は変わらざりけり

  見よ、天地の道を一呑みにして、至誠の侵すことのできないことを言い表しているよ。」


山岡鉄舟(1836~1888)


人には、秀でた所もあれば、劣った所もある。
一概に、人を捨てたり、人を笑ったりできない。
―――――――――――――――――-

無刀とは、心の外に、刀が無いこと。
敵と相対するとき、刀に拠ることなく、
心を以って心を打つ、これを無刀という。
―――――――――――――――――-

宇宙と自分は、そもそも一体であり、
当然の帰結として、人々は平等である。
天地同根、万物一体の道理を悟ることで、
生死の問題を越え、与えられた責務を果し、
正しい方法に従って、衆生済度の為に尽くす。
―――――――――――――――――-

剣法を学ぶ所以は、ひとえに心胆練磨。
もって、天地と同根一体の理を果たして、
釈然たる境に、到達せんとするにあるのみ。
―――――――――――――――――-

自然は教師なり、自然を眺めて学び、自然に即して考える。
―――――――――――――――――-

どの道でも、師匠に選ぶには最善の人にするべきだ。
―――――――――――――――――-

心身ともに忘れ、自ずから天地万物、一筆に帰するの妙。
―――――――――――――――――-

敵の好む処に随ひて、勝を得る。
―――――――――――――――――-

晴れてよし 曇りてもよし 富士の山
―――――――――――――――――-

義をもってしないならば、富があっても楽しいことはない.
―――――――――――――――――-

人は至誠をもって四恩の鴻徳(こうとく)を奉答し、誠をもって私を殺して万機に接すれば、天下敵なきものにして、これがすなわち武士道である。
―――――――――――――――――-

鉄舟二十則

  1. 嘘を言うべからず候
  2. 君のご恩は忘るべからず候
  3. 父母のご恩は忘るべからず候
  4. 師のご恩は忘るべからず候
  5. 人のご恩は忘るべからず候
  6. 神仏ならびに長者を粗末にすべからず候
  7. 幼者をあなどるべからず候
  8. 己に心よからざることは他人に求むべからず
  9. 腹を立つるは道にあらず候
  10. 何事も不幸を喜ぶべからず候
  11. 力の及ぶ限りは善き方につくすべく候
  12. 他をかえりみずして自分のよきことばかりすべからず候
  13. 食するたびに稼穡(かしょく=種まきと収穫、農業のこと)の艱難を思うべし すべて草木土石にても粗末にすべからず候
  14. ことさらに着物を飾り、あるいはうわべをつくろう者は、心に濁りあるものと心得べく候
  15. 礼儀を乱るべからず候
  16. 何時何人に接するも客人に接するように心得うべく候
  17. 己の知らざることは何人にても習うべく候
  18. 名利のために学問技芸すべからず候
  19. 人にはすべて能、不能あり。いちがいに人をすて、あるいは笑うべからず候
  20. 己の善行を誇り顔に人に知らしむべからず。すべて我が心に恥ざるに務むべく候
―――――――――――――――――-
山岡鉄舟(1836年7月23日-1888年7月19日)

江戸に生まれる。家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学び、武術に天賦の才能を示す。浅利義明(中西派一刀流)門下の剣客。明治維新後、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。
幕臣として、清河八郎とともに浪士組を結成。江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会する。
明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。
勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であった。